駿河屋 提供・宇治観光案内お薦めスポットのページ | [戻る] |
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久重の4人の子息はそれぞれ一家を興し、上林久茂、上林味ト、上林春松、上林竹庵となり宇治茶業界を代表する茶師として、生産流通に重要な役割を果たすことになる。桃山時代には豊臣秀吉に重用され、茶頭取として上林一族に宇治茶の総支配を命じ、また、宇治郷の代官にも任じた。徳川三代将軍家光の時代になると、将軍家御用のお茶の調達を宇治茶師に当らせ、茶壺の往来には豪華な行列「茶壷道中」をもって行なった。明治維新後、宇老茶師の各家は相次いで転、廃業したが、上林春松家は唯一宇治茶師の後継ぎとして現在に至るまで茶業を営んでいる。 |
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上林又兵衛家の始祖、上林久重の四男で若年より徳川家康に仕え三河土呂郷の支配に当って百石の知行を受け、三河茶の栽培に関与したと伝えられる。のちに宇治に帰り茶業に精励したが、関ケ原役に際して、旧主家康の恩に報じて伏見城に龍って鳥居元忠とともに奮戦し城内において戦死した。この像は竹庵の百年忌に際して宇治平等院に祀られたもの、その功を讃えて建立された顕彰碑は平等院境内にある。 | |||
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ルソン壺 安土桃山時代、海外から渡来された陶製の壷、当時、貿易品はルソン、すなわちフィリピンを経由して渡来したため、総じて呂宋と称されていたが、多くは中国南部産のもので、東南アジア諸島産のものは僅少であったと推される。壷は肩に四耳を付したものが多いが、中には二耳、五耳のものも見受けられる。これらの壷は茶壷として豊臣秀吉をはじめ織田有楽、浅野長政らの諸大名に珍重された。清香の壷は中国南部産で、肩部に「清香」の廊印がある。真壷と尊称された輸入茶壷の一種である。 | ||
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この門構えは「長屋門」と称され、宇治茶師の家の独特の建築物である。 元禄十一年の宇治の大火災で類焼後再建されたもので二五〇年余の年月を経ている。門は欅材を使用しており、もとは出入口の両脇に部屋があったが、大正三年に大修理されたとき、東側の長屋がひどい痛みで取り壊された。昭和五十二手より約一年間の工期で当時のまま修復、「宇岩・上林記念館」の展示場とした。 現在は問ロニ十五間、面積は14.3坪で二階建てである。貞享二年(1685)刊の「京羽二重」によると、おなじ長屋門をもつ茶師は、宇治橋筋だけでも九家の名がみられ、周辺を加えると一六軒に及び、当時の宇治橋近辺には門構えが軒を連ねていたことが想像される。明治以降、つぎつぎとその姿を消し、町並みの景観も変貌した。 いま、かっての町のおもかげを偲ばせるのは、唯一この構えのみとなった。 |
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